スタートの合図で選手が一斉にスタートする。
飛び込んだ時、プールサイドで心配そうに手を組む奈央ちゃんの姿が見えた。
(奈央ちゃんには少し、悪い事しちゃったな)
一緒に兄ちゃんを止めてくれていたけど、内心は「私がもっとちゃんと傍に居れば」と考えていただろう。
ぼんやりしてるように見えて気配り上手な人だから、尚更心苦しいだろうな。
一心不乱にプールを見つめて祈るその姿は勝利の女神のようだ。
兄ちゃんは兄ちゃんで穴があきそうなほどの目線でこっちを見てたな。
少しでも痛がったら戻すつもりだねー。
兄ちゃんは少し心配症すぎるんだよ。
水をひとかきするたびにぐんぐん体が前へ進む。
気持ちいい。
誰かがあたしと競ってくれている。
誰かがあたしを見守ってくれている。
誰かがあたしを認めてくれている。
水の中で泳いでいるだけで心地よかったのに。
こんな世界がまだあったんだ。
(…もっと泳いでいたいな)
ゴールはもう少しだろう。
この時間が終わってしまうのがたまらなく悲しい。
打ちつけられた肩は痛いし、殴られたお腹もジクジク痛むけど。
それでも今死んでもいいと思えるほどに幸せだ。
手がゴールについても、まだドキドキしてる。
「はぁっ、はぁっ」
『ただいまの順位…』
放送の音が遠くて耳がざわざわする。
肩は痛くてもう上がらない。
頭が真っ白だ。
「まっつー」
声をかけられたほうに顔を向けると、委員長がこっちを見ていた。
あっちも肩で息をしていて、頬が赤く染まっている。
「委員長!」
「は、はい!?」
「すっごく楽しかった!」
感情のままに思ったままにそれしか言えなくて。
ありがとう、とか怪我で全力でなくてごめんね、とか言いたいことあったのに。
「…」
あ、委員長変な顔。
そりゃ意味わかんないよね。
…ちょっと恥ずかしくなってきた、上がろう。
「お疲れ、アキちゃん」
「ん」
奈央ちゃんにタオルで包まれてボードを見ると、名前が残っていた。
これで決勝進出かぁ。
「あれ、でも2位だ」
1位はやっぱりというか委員長。
そっか、それで変な顔してたのかな。
「肩は大丈夫?」
「なんとかね」
正直に言えばもう限界。
3回泳げるかと思ったけど、2回が限度だったみたい。
もう動かすだけで激痛が走る。
こりゃねんざか脱臼かしてるかもしんないね。
「…救護室行って帰ろっか」
やっぱり奈央ちゃんは肩の状態が良くないことに気付いてるみたい。
そっとあたしの体をタオル越しに抱きしめると、体を震わせた。
バカだな、奈央ちゃんが泣くことないのに。
みんなちょっと過保護すぎる。
あたしは少しも辛くないのに。
あたしほど幸せなヤツはいないのに。
「ったく、お前ってヤツはほんとに運が悪いよ」
兄ちゃんに言われたくないなぁ。
しかしまぁあたしが救護室に行ってすぐに気付いて飛んできたんだから許してやるか。
「けど軽いねんざで済んでよかったね」
「しばらくすれば治るって」
まぁ突き飛ばされて思いっきり踏みつけられただけだしそりゃそうでしょうとも。
相手はしょせん女の子だしね。
「しかし残念だったなぁ。決勝まで行ったのに結局不戦敗で6位か」
「賞品は図書券五千円分。まぁ元はとれたかな?」
「何買うかもう決めてるの?」
「うん」
一回やってみたいことがあったんだよねー。
「エロ本の棚を指差して右から左までって…」
「五千円で足りるかバカ」
…やっぱり?
「じゃ、普通にエロ本買おう…」
「エロ本一托なんだね」
そりゃあね。
勉強しないあたしが本屋さんで他に何を買えっての。
「俺がお勧めを教えてやろう」
男しか載ってない本買っても兄ちゃんしか喜ばないから。
「そういや兄ちゃん、ノリ置いてきて良かったの?」
会場出てから聞くもんじゃないけど。
あたしには奈央ちゃんがいるし平気だよ?
「うちの学校の水泳部は今から打ち上げだって上位に残った選手は焼肉を奢ってもらえるらしい」
なるほどね。
ノリはノリでひっそりと4位とか取ってたしみんなに囲まれてるわけだ。
「本当はノリもこっちに来たがってたんだけど俺が無理やり残してきたんだ。
俺があっちの残るのも気まずいしな」
まぁノリとしては焼き肉より兄ちゃんがいいよねそりゃあ。
でも部活の仲間との時間も大切にしないと。
それがわかってたから兄ちゃんも本当はノリを猫可愛がりしたかっただろうに置いてきたんだろう。
「よしよし」
「なんで俺が褒められてんだ…」
兄の頭をガシガシと撫でてやって、奈央ちゃんにも向き直る。
「奈央ちゃんも、今日はありがと」
「ううん、本当にごめんね。私がもっとしっかりしてれば」
落ち込む奈央ちゃんの口をぎゅーっと挟んで口を閉じさせる。
「好きなだけ泳がせてくれるんでしょ?」
「へ?」
「競泳用プール、奈央ちゃんの奢りでよろしく」
「…ふふ、了解しました」
もちろん怪我が治ってからだけど。
んー、本当ならこの後競泳用プールで延々と泳いでいたかったけどさすがに痛い。
「よし、約束通り上位入賞果たしたんだ。
今日はカレーにしようぜ!」
なんでそこでカレーなんだよ。
「おでん!」
「祝い事といったらカレーだろ!」
そりゃあんただけの決まりごとだい。
あたしの中じゃおでんなの、おでん!
「どっちもつくればいいじゃない」
「「そんなに食えるか!」」
あのねぇ、奈央ちゃん。
カレーもおでんも結構重いんだよ?
あなたどんだけ食う気なんですか。
「待って、アキちゃん!」
後ろから声をかけられて立ち止まると、誠二達が走ってきた。
「桃松」
誠二たちに手を連れられてきたのはみどりん。
…そんな心配そうな顔しなくても。
「ごめん、私がもうちょっと早くあの場所に着いてれば…」
むしろあの時点で万々歳だったけどなぁ。
あのまま誰も来なかったらきっとどこかに閉じ込められてたかもしれないし。
そうなったら入賞どころじゃなかった。
どちらかといえばお礼を言わなきゃならないのはこっちの方だ。
「ありがと」
「あんたがお礼を言う必要なんてないでしょ」
そうかな。
それよりみどりん水泳部はいいのかな。
「みどりん水泳部は?」
「…今日中にあんたに謝らないと気が済まなかったのよ」
ほんと、良い人ばっかり。
「じゃああたしはいいからはやく水泳部に合流しないと」
「もうみんな行っちゃったわよ」
お祝いモードで早々と焼肉屋にみんな行っちゃったらしい。
それで抜けだすことが許されたということは…。
「みどりん入賞しなかったんだ」
「悪かったわね!そういうのは考えても普通口に出さないもんでしょうが!」
いやー、あたしったら正直者だもんで。
「じゃあみどりんもあたしらと一緒におでん食べようよ」
「だからカレーだっての」
「おでん!」
「カレー!」
「こらこら、二人ともみどりちゃんが困惑してるわよ」
だっておでんがいいよ。おでん。
そもそもあたしのお祝いだろ、おでんだろ、おでん。
「夏雄も大人げないわよ」
「…カレーは万能なんだ」
それは否定しないがお祝い時までカレーじゃなくていいだろうよ、兄ちゃん。
「私たちもご一緒していい?」
「もやし炒めがいいな、俺は」
「ほら、誠二も巽もおでんがいいって言ってる!」
「「言ってないから」」
誰がなんと言おうともおでんだおでん。
おでん最高。
「どけ兄ちゃん、そのオタマはあたしのだ…!」
「ふっ、妹よ。このオタマを渡すわけにはいかない…!」
兄妹喧嘩の原因がオタマって…。
「おでんにとってオタマがどんなに大事かわかっているのか…!」
「カレーにとって命のような存在だぞオタマは…!」
まぁ確かにどっちも鍋だからオタマがなきゃ作り辛いわよね。
でもアキちゃんはおでんなんだから箸でもいいんじゃない?
あぁ、卵の味見とかしたいのね。
私たちは宴の準備と称して色々買い物してから桃松兄妹宅へ帰ってきた。
もちろん私たちが作ろうと思っていたんだけど桃松兄妹が二人揃って猛反発。
「おでんならあたしに決まってる!」
「俺より上手いカレーを作れる者などいない!」
と、いうわけで二人がキッチンに詰まり込んで早1時間。
「…カレーもおでんも時間かかるから違うのにしようって言ったのに」
「いいじゃんおでんで!」
「いいじゃんカレーで!」
はいはい。
すっかり待たされている私たちは完全にお祝いモードじゃなくなってるんですよー。
「みどりん6巻まだー?」
「もう少しで読み終わるから待って、せーちゃん」
「誠二、2巻取ってくれ」
あまりに暇だからみんなで鉄の錬金マスター熟読中。
ゲームっていう選択肢もあったけど一応ご飯待ちだし。
ちなみに「カレーもおでんもレトルトでいいじゃねぇか」って言った巽君はとても怒られた。
二人の基準でレトルトは完全アウトなのね。
「えーい、前に借りパクした『独占スクープ!君とボクの学園ライフ』返すからオタマ貸せ!」
BLゲームよね、それ。
アキちゃん、だんだん雑食になりつつあるわよ。
「だったら前に没収した『三階のお姉さん〜ご主人様とおよび〜』を返すからオタマ貸せ!
なんだったら俺のタマ二つ貸してやるからオタマ貸せ!」
「いらんわそんな粗末な物!でも三階のお姉さん返せ!そしてオタマ貸せ!」
あぁ、アキちゃんドM疑惑だわ。
二人揃ってオタマばっかり連呼するんじゃないの。
わかっててやってないかしらあの二人。
「タマ貸せ!」
「タマ貸せ!」
どう考えても確信犯だわ。
突っ込み待ちよね。
いっそ二人揃って精神病棟に送り込めば良かったかしら。
「はい、せーちゃん。6巻」
「ありがと。巽、お茶取って」
「ほらよ」
誰も聞いてないわよ。
そんなランランとした目で私を見ないで。
下ネタにだけは突っ込みたくないのよ。
「…ふぅ、しょうがない、二つめのオタマ出すか」
最初から出しなさい。
「オタマとオタマ、二つ合わせてタマタマ!」
「あはははは!」
大学2回生の男がいい年してレベルが小学生ってどうなの。
バカ受けしないの、アキちゃん。
「さて、真面目に味見するか」
「そうだね」
冷めるのも早い辺りが嫌だわこの兄妹。
ストッパーのノリ君が不在なのは痛い。
私じゃこの二人をまとめるなんて無理…!
「うん、上出来」
「完璧だね」
こらこら二人だけで悦に入らない。
「二人とも出来たらさっさと運ぶ!」
「うぃーす」
「へーい」
二人揃ってちまちまと運び始めたけどアキちゃんだけはみどりちゃんに椅子に固定させられた。
「なに?」
「肩上がらないでしょ。じっとしてなさい」
みどりちゃんはなんだかんだでいい子よね。
ちょっと素直じゃないだけで。
「お箸はこれでいいんですか?」
「あ、それはノリ君専用だから」
「なんで野沢君専用の箸が…?」
みどりちゃんは二人の関係は知らなかった…!
失敗すると地雷コースね、覚えておきましょう。
大体並べ終えると、なんというかすさまじい図になった。
「カレーにおでん…」
「もやし炒めもあるよ☆」
「肉がねぇな」
「カレーに微妙に入ってる」
「おでんに牛もいるよ☆」
アキちゃん楽しそうね…。
「…へぇ、本当に結構おいしいじゃない」
みどりちゃんはおでんともやし炒めを一口ずつ食べると喉を唸らせた。
おでんともやし炒めだけはね。
前にアキちゃんに作ってもらった目玉焼きはすごく自然体だったし、アスパラの肉巻きとか教えてみたらものの見事に味が無かったわ。
サラダにドレッシングはかけないしお米はお米だけで食べる。
…どういう舌してるのかしら。
「カレーもどうぞ」
「ありがとうございます」
誠二君と夏雄はもう食べ物以外は目に入らないみたいでガツガツ食べている。
アキちゃんは黙々とおでんを食べてる。
大根6割、他の物4割よね。
おでんっていうより大根が好きなんじゃないかしら。
「誠二君、ご飯おかわりする?」
「うん」
可愛いわよね、誠二君。
そういえばみどりちゃんとヒナちゃんと仲良しになったのよね。
完全に女の子だわもう。
目があったからニコリと笑うと、ニコッと笑い返してくれた。
「あぁ、なるほど」
突然、みどりちゃんがポンと手を叩いた。
「どうしたの、みどりちゃん」
「いえ、せーちゃんって奈央さんに似てるんだなって思っちゃって」
…そう?
私こんなに可愛いかしら。
「やっぱりわかる?」
誠二君はえへへと笑うと恥ずかしそうに顔を伏せた。
「うん、見た目はそこまでだけど、喋り方が似てるんだわ。
こないだ買い物に行った時も服のセンスが似てると思ったし」
そうなの?とアキちゃんと夏雄に目線を振ると首を傾げられた。
巽君だけがうんうんと頷いている。
「女らしくなるって決めたのはいいけど当時周りに他に女らしい人がいなかったんだよな」
そういえばそうね。
誠二君の周りの女性って言ったら私かアキちゃんだもの。
「喋り方から何から奈央さんの真似するしかなかったの。
アキちゃんを真似したらおじさんになっちゃうんだもの」
「ファッションセンターしま○らの何が悪いのさ」
悪くは無いけどそれ一托はダメよ、アキちゃん。
あとお箸で人を指差さないの。
「漫画とかドラマでも良かったけどできればリアルな女の子を目指したかったから」
「その選択は間違ってなかったと思うわせーちゃん」
アキちゃんの好みにさせるとちょっと現実離れしちゃうものね。
ピンクのおリボンだとか…。
あ、でも今の誠二君の髪の長さは割と二次元寄りかも。
長いわよね〜。
「ふむ」
どうしたの、アキちゃん。
「いや、姉妹みたいだなと思って」
姉妹?
思わず誠二君と顔を見合わせる。
「確かに」
「完全には似ていないところがぽいよな」
前から、アキちゃんみたいな妹が欲しいとは思っていたけど。
実際に誰かと妹みたいと言われると少しくすぐったい。
照れ隠しに誠二君を見ると、にっこりと微笑まれた。
「ふふ、お姉ちゃん♪」
ズキュゥン。
「なあに?」
「奈央ちゃん、鼻血出てる、鼻血」
あらやだ、夏雄みたい。
「お前、アキがいいんじゃなかったのか?」
「アキちゃんはもちろん一番の理想だけど誠二君も可愛いわ。
いっそみどりちゃんも合わせてみんな私をお姉ちゃんって呼んでくれればいいのよ!」
「うわ、奈央ちゃんが壊れた」
「奈央さんはまともだと思ったのに」