時間が止まることなんて起こるはずないのに、私の周りだけ止まったように感じた。
『演劇部、人情作戦は失敗だったかー!?』
あっちで嬉しそうにしている寛子。
こっちで唖然としているみんな。
悔しそうな顔でも、笑ってもいないのが私。
「じょ、ジョウ!なんだこれ!?」
無言で次の舞台にあがる。
悪いね、さぁてなんでしょうとふざける余裕はないんだ。
後ろからも前からも痛い視線を全部受け止めて前にでる。
『さて、次は体力勝負!今回、一回戦で負けてしまった演劇部!後はないぞー!』
三番勝負というのは実に恐ろしいものである。
一人目で負ければ、二人目の負担は重い。
負ければここで試合が終わる。
つまり、一人目で負けた今、負けられない。
……というのが私に用意された舞台。
オーダーシートで一番目を姫から明日香に変えてまで用意した舞台だ。
相手はやっぱり。
「ジョウと直接対決かぁ」
「お誂え向きでしょ?」
「?」
寛子は一瞬きょとんとした後、まるで興味ないと別の方向を向いた。
対決はハンド部から借りたピッチングマシンを使ってのバッティング対決。
ボールが来たら打つ。
打てなかったら負け。
「単純」
「体力勝負だし」
……やっとこっちを見たな。
目線を合わせてニィと笑ってみせる。
「ジョウ、なんか、昔に戻ったみたいなんだけど……」
「正直に生意気だって言ったら?」
息を呑む音がした。
人のことはいえない。
私も背中が冷や汗でびっしょりだ。
寛子と口喧嘩なんていつ振りかな。
……いつのまに私は寛子に逆らわないようになっていたんだろう?
恋する前は喧嘩ばかりで、付き合ってもバカな言い合いしたりして。
嫌われることを怖がって気付けば寛子の機嫌ばかり伺っていた。
なんだ、つまらないはずだ。
そりゃあ、寛子も飽きるよね。
「……」
あれ、軽口が返ってこない。
これは本格的に怒ったかな?
ちょっといや待ってマジで。
覚悟はしていたけれど、結構怖い。
「……今更」
バッティングボックスに立つ前に小さく聞き取れた言葉。
何が今更?
聞き返そうにも、定位置に立った後だ。
まずは私から。
『第一球!行きまーす!』
バットを振って軽く球に当てる。
真剣に勝ちたいのならホームランなんか打つ必要なんてない。
バントは禁止、らしいけど。
かなり腑抜けた音がしてボールは前を転がった。
拍子抜けだとうるさいアナウンスの声を無視して寛子とすれ違う。
「相変わらずイヤらし〜いことするね」
寛子が意地悪くからかうように笑った。
あぁそうだ、こんな顔だったね最初は。
最近は媚びるような笑顔ばかり見ていたけれど、そうだ最初はこうだった。
寛子はというと私とは違って思いっきり振り回してボールをかっ飛ばした。
「無駄全力ー」
「うっさい」
心の中にまだ「戻りたい」なんて感情が残っていたなんて……。
未練がないといえば嘘になる。
でもきっとこれは最後だ。
4球目ぐらいだろう、この応酬のくりかえし。
「……何笑ってんの」
言われて自分の頬を触ると確かに笑っていた。
意図でなく、自然に。
「あは」
間の抜けた声が出て、バッターボックスに立った時には雨まで降ってきた。
本当に今の今まで寛子のことしか考えていなかった自分に笑った。
なんだ、まだ好きだったのか。
気付きたくなくて人に当たって最低だなぁ。
もう自分がバットを振ったことすら覚えていなくて、目の前に転がるボールでやっと意識を呼び戻した。
ぼんやりとしていたら綺麗なバッティングの音が聞こえる。
あぁ、次だ。
雨はどんどん強くなって私の体力を奪っていく。
やればできるヤツは、いざっていうときにできないことがほとんど。
私も例に漏れなかったってヤツだね。
それともガラにもなく本気で振り被ったからかな。
確かにバットを振ったはずなのにボールが後ろの網からコロコロと転がってきた。
『勝ったのはテニス部だー!』
テニス部の連中が人数の多さを主張するようにわっと寛子に駆け寄った。
私はただ呆然と空を見上げていた。
バンちゃんが何か話しかけているけれど、聞く耳を持ちたくなくて一人で歩き出した。
演劇部の部室から鞄だけ取ってすぐにある場所へ向かった。
「ジョウ」
既にその場所には寛子がいた。
いつも二人で会っていた場所。
最近は会うと腕を絡めてきていたのに、今回ばかりは違う。
真正面から見つめ合う。
「さっきの、楽しかったね」
無言で頷き返す。
「バンちゃんびっくりしてたよ」
「放送部の部長オトしてバンちゃんには情報が流れないようにしたからね」
「あぁ、やっぱり」
“やっぱり”と言った。
寛子も知っていたんだな、私が浮気をしていたこと。
これは私の“やっぱり”だ。
気付いているんじゃないかと疑ったのは木田深香をけしかけられたとき。
ただわからないことが多すぎる。
「だからわざと負けたの?」
「わざとじゃないよ。ちゃんと真剣にやった」
……自分が負けたら終わるように設定したのは自分だけど。
もう一つだけ気になることもあったし。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
「ものによるけど」
「バンちゃんにいくら払ったの?」
木田深香然り、不自然なところがいくつか。
寛子の態度にしても気になる部分がある。
基本的に文化部に寄り付かない寛子。
私の行動範囲はあくまで文化部に集中していた。
それ以外はバンちゃんと一緒だったりでただ友達にしか見えなかったはず。
寛子が知るチャンスがあったとすれば合宿か人伝に聞くか。
合宿は必ずバンちゃんが見張りで居たし、もっと他の人伝なら違う人にまで一気に広まっているはず。
バンちゃんは自分の情報価値のために言いふらすような人には情報を売らない。
とすればバンちゃん本人が動いていると考えるのが妥当かな、と。
「……何も払ってないけど?」
あ、これは結構、今日一番のびっくり。
「あいつに金払ってたの?
私にはベラベラといろんなこと話してくれたけど……友達は選んだほうがいいんじゃない」
……えー。
バンちゃんから恨みをかうようなことをした覚えは一回しかない。
合宿のときの処女喪失。
いや、でもあれそんな怒ってなかったと思うんだけど。
「……人のことは言えないけど」
「はぁ」
「私も、恋人を選ぼうと思って」
今回、勝負に負けてもいいし、勝ってもいいなと思っていた。
寛子の目はまっすぐにこっちを見ている。
私も見つめ返す。
こうして真剣に目を見るのは付き合う前以来じゃないかな。
付き合ってからはお互いに目が曇っていったから。
「勝ったほうが、言うことを聞く約束だったよね」
無言で頷く。
何を言うかはわかっている。
どうせ負けても勝っても、どっちの要求も同じなのだから。
「別れよう」
雨に濡れた体が冷たい。
『いい勝負』というのは戦ったあとにも傷跡を残す。
また無言で頷いたのは声を出すと震えそうだったから。
頷いたままに顔を下げた。
しばらくして寛子がゆっくり歩きだそうと足を引く音がした。
「……最初から、興味なんてなかったよ」
顔をあげたけれど背を向けられているから顔は見えない。
「ジョウなんか、優に近づくための踏み台だったんだから」
それだけ言って寛子は廊下に消えていった。
私はというと、どうしてもその場に居たくなくて外に出た。
雨は相変わらず降ったままで、傘もなく立ちつくす。
ふと視線を感じて振り返る。
知らない人間ならそれだけで帰るだろうと思った。
「風邪引くよ」
できれば一番来てほしくない友人が立っていた。
「……」
「しょうがないなぁ」
タオルを差し出されたけれど受け取る気にもなれない。
そのまま立ちつくしていたら強引に傘に入れられタオルを頭に被せられた。
私が目を合わせないでいると、少し寂しそうな声で名前を呼ばれた。
「きーちゃん、ごめん」
「どういう意味」
久しく聞かなかった呼び名に心がどうしてを繰り返す。
目の前に立っている人、バンちゃんに緩い抗議の目を向ける。
「一番最悪な結果になっちゃった」
いつも被っている帽子は無く、小さなバンちゃんの身体が更に小さく見えた。
顔は見えないけどこの空気を演技で出しているなら大したものだ。
「……おかげさまでもう何も信じられなくなりそうだよ」
「だよねー」
小さく笑ってみせたバンちゃん。
その笑顔は弱々しい。
「おかしいな、こんなはずじゃなかったのに……」
「人の懺悔なんて聞きたくないよ」
「だよねー……」
力なく握られた傘が倒れる。
バンちゃんの綺麗な黒髪が雨に濡れ始めた。
傘、意味ないなぁ。
「あのさっ、寛子は!ジョウのこと本当に好きだったんだよ!」
「さっき相田に近づくための踏み台って言われたんだけど」
「あの子とあたしとどっちを信じるんだよ!」
「どっちも信じられないって」
「う……」
バンちゃんのくりっとした目がうるっと揺れる。
そんな目をされても困る。
今一番傷ついていいのは私であるはずなのに。
「信じられないと思うけど、どっちも本当なんだ」
どっちも、ねえ。
ぼんやりしている間にタオルまで濡れてきて、体中が重くなってきた。
バンちゃんの手はいつのまにか私の手を掴んでいた。
その手は弱くて簡単に振りほどけそうだったのに、私はなぜかそうはしなかった。
「確かに最初は相田に近づくためだったみたいだけど、でも途中からは本当に好きだったんだよ」
「寛子のことは、いいよ。もう」
終わったことだ。
しかもついさっき。
むしろ思い出せば辛い。
「で、バンちゃんは寛子のことでも好きだったわけ?」
「あたしはずっとすぎのこ一筋!」
まだ引きずってるんだなぁ。
可愛い可愛い妹。
家族から溺愛された天使のような女の子。
幼馴染と密かに愛し合い、幸せを約束された可愛い私の妹。
事故で亡くなるまで、それをずーっと見ていた。
姉である私は幸せだったかと聞かれると難しい。
私はもともと出来の良い姉ではなかった。
ただ、出来が良くなるしかなかった。
親の愛はひたすらに妹に注がれ、たまに双子である筍に注がれる。
姉に零れてくる分なんて何一つなかった。
存在が維持費のかかるインテリアのようなもので、不満もなければ満足もない。
「……私が可哀想だったから?」
喉の奥から出た声はすごく卑屈で、イヤラしかった。
「そう、なのかな?」
「いや、私が聞いてんだって」
「ジョウがまだあの子のことを好きなことは感じていたよ。
だから、寄りを戻さないかなって……」
柄にもないことを考えたものだ。
お金にならないのに、人のために走り回っただって?
あのバンちゃんが?
それこそ信じられない。
そんなバンちゃんが狂うことがあるとすれば……。
「すぎのこに約束でもされた?」
「え?」
「可哀想な姉を幸せにしてあげてって」
死んだ人間にまで心配されるほど、私は惨めだったのか。
人間不信に合わせて自分不信にまでなりそう。
どれが真実でどれが嘘?
「すぎのこは、いつだってきーちゃんのことが大好きだったよ」
「そ」
可愛い可愛い妹。
憎みたくても可愛いから憎めなかった。
しょうがなく声をかけると、嬉しそうにお姉ちゃんと笑ってくる。
声をかけただけなのに、と思っても自分まで嬉しくなってしまうのだからしょうがない。
だから妹が生きている間は、私の分まで妹が幸せなんだから、いいのだと思えた。
妹が死んで崩壊した我が家。
両親は、弟を妹の名前で呼び始めた。
私は居ないも同然。
弟は全寮制の学校へ逃げた。
私も親戚の人に説得してもらって一人暮らしを始めた。
子どもがいなくなってなんとか両親は安定したらしい。
もし私の幸せを願う人間がいるとすれば、それはすぎのこしか居ないと言えてしまう。
「でも、きーちゃんのことなんて何も話してなかったよ」
「あれ、そうなの?」
「……今回は、あたしの意志だ」
「可哀想な幼馴染を幸せに計画?」
茶化してそういえば、バンちゃんは更に力を強くして腕を引いてきた。
「そうだよ」
気付いたときには抱きしめられていた。
雨で張り付いた服が気持ち悪い。
タオルも地面に落ちて茶色く汚れてしまった。
それでも人肌を心地良いと感じてしまう自分もしっかり汚れている。
「きーちゃんに幸せになってもらわないと、あたしがしんどいんだ」
身長の低いバンちゃんの口が鎖骨に当たってくすぐったい。
「そのためなら、他の人間なんてどうだってよかった。
お金なんて口実だ。
だって今のきーちゃんはどうしようもない人間で、信用してもらうには自分もどうしようもない人間にならなきゃ」
「お金はすぎのこのためじゃなかったの?」
「半分半分だよ、きーちゃん」
随分熱いことを考えていたんだな、と思う。
でもすぎのこがお熱になった人間だもの、根はやっぱりまともだったんだなぁ。
「すぎのこのためにお金は持ちたい。
でも、きーちゃんのためならお金なんかなくてもなんでも喋ったよ」
「……信じられないなぁ」
「信じられなくていいよ」
ただ、いつだって味方だよ、と。
そんな性格でした?と茶化そうにも、確かにそんな性格でした。
元々バンちゃんはすぎのこのためになんでもやっちゃう優しいお姉さんだった。
すぎのこが死んだショックで性格が変わったんじゃなく、私のためにずっと演技してたって?
やっぱり信じることはできない。
ただ、信じようが信じまいが、憎む気になれなくなったのは事実。
このまま引っ付かれていても困るな。
身体は重いし雨で濡れた服が気持ち悪い。
動かしたくない身体を嫌々動かす。
「きーちゃん」
すぎのこといい、寛子といい、こいつといい、みんな憎まれずにいることが上手いよね、と一人愚痴る。
信じることはできなくても、バンちゃんがとった行動は解ってしまうもの。
寛子に情報を流し始めたのは、私がまだ寛子を好きだったから。
寄りを戻させるために寛子に嫉妬心を煽らせた。
寛子が言うとおり相田目当てで私に近づいていたなら、生意気だと私に報復、更にそのままキープで別れない。
もし私に少しでも心があるなら私の浮気相手に何か起こるはず、そして私自身に選択を迫るはず。
寛子は親友であるはずのトマ子を襲わせた。
……ただ、気になるのはその後私が浮気していたことを何も言わずにすっぱり別れた。
自分の浮気だけ発言して。
「人っていうのは予想通りにならないね」
「え?あ、うん」
少し怯えながらも後ろをちょこちょこ付いてくるバンちゃんを見ていると、昔に戻ったみたいだ。
もしかして、確かに相田目当てだったけれど私に心が移っていた?
でもそれが最終的に相田に戻った、なんてややこしすぎ?
「頭痛い」
「ご、ごめん」
「その態度も頭痛い」
調子狂うなぁ。
でもそう考えると納得。
いや、でも待って一つすごーくスルーしている内容がある。
相田に近づくために、私に近づいた。
という仮定で進んでいるのだけれど、まずそこに疑問。
そもそも、相田と私はほとんど面識がない。
もうバンちゃんに頼りたくはない。
身体だけでなく脳みそも動かし始めることにした。
次の算段だ。